倉谷拓朴「Black&Blue」に寄せて ― 幾重ものアナロジーが生み出すもの
数年前、このギャラリーで最初に倉谷拓朴の「その森のできごと」を見た。繊細なイメージに強く惹かれたが、同時に、彼はいったい何を
"可視化"しようとしているのかを考えてしまった。
「その森のできごと」は福島県とその周辺地域の森林の植物などを採取し、太陽光で焼き付けたフォトグラム、つまり日光写真である。写し取られたものの痕跡は青く留まり、印画紙の余白に滲んで微妙なグラデーションを纏っている。キャプションを見ると、それらは杉、笹、籾殻、桜、松、蕨、蜻蛉などだと書かれている。
わざわざ書くまでもないことだが、可視化とは、見えないものを見えるようにすることだ。アナログ写真の場合であれば、例えば精緻な描写力で肉眼では認識されなかった事物の細部を捉える、多数の写真から共通項を浮かび上がらせる、あるいは撮影主体と写された側の関係を類推させる、といったことだろうか。
同作の雰囲気は、伝統的な墨絵にも似ており、生命の儚ささえ感じさせるだろう。ゆえに日本的な自然観を可視化したものだ、などと直ぐに決めつけたくなる。だがこの衝動は、キャプションに書き込まれた、放射線量を示す数値によって留保される。福島第一原発事故の長期にわたる影響を可視化し、記録として留めた、その映像でもあると思い始めてしまうからだ。
とはいえ、これもまたアナロジーなのである。日光写真という手法で放射線を可視化することなど不可能だからだ。ただ、私には、「その森のできごと」は、それを実現したある画像を思い起こさせる。それは2015年に刊行された森 敏(東京大学名誉教授)と加賀谷雅道(写真家)による『放射線像 放射能を可視化する』で、放射線に対して、レントゲンの百倍ほども高い感度を持つイメージングプレートを使った「オートラジオグラフィー」という手法を用い、じっさいに滞留する放射線を写真として焼き付けている。こちらは白地に黒のシルエットであるものの、原理的にはフォトグラムと言って良い。「その森のできごと」とよく似た画像も散見される。私のように、日光写真がオートジオグラフィーという可視化手法に対する一種のアナロジーとして見え始める人もいるだろう。
それは悪いことでないと思う。日本固有の伝統的な自然観と、それを壊している物理現象との相克の緊張感をより高め、作品の解釈をさらに多層化させる役割を果たすからだ。
振り返ってみれば、福島原発事故による見えざる汚染は、写真家を様々な可視化の試みに駆り立ててきたのだ。あれから10年以上が経ち、発表された成果物は多い。その多様さが見る者それぞれの心のなかで結ばれ重なり合い、自然と罪深い人間の営みの相関関係についての、立体的な理解が生まれている。それは同時に、写真の可視化という作用についても深く再考させることを促し始めているのではないか。
本展は「その森のできごと」のほか、3か所で撮影されたモノクロ作品を抜粋して再構成し、展示する予定だと聞いている。それぞれ福島の「shine」、新潟県十日町市の「snow country」、信州の諏訪湖周辺の「SUWA」である。いずれも小さな生命が織り成す、生と死の風景を、素朴に徹して捉えた心象的イメージである。
白黒と白青、陰画と陽画、対照的だが同一の地平をもったイメージが、ナユタの白い空間で響きあう。そのとき、どちらか一方だけでは明確には可視化され得なかった何事かが、深い余韻をともなって浮かんでくるはずだ。それは、きっと人が宿命として引き受けなければならないものなのだ。少なくとも私はそのような期待をもって、この展示に足を運びたいと思っている。
鳥原 学 とりはら・まなぶ / 写真評論家