漂う, 溶ける
早見 堯
中根秀夫の作品はこんな印象だろうか。
映像の多くは、福島県楢葉町の写真のように垂直と水平の構造を潜ませている。室内の青い花びらと窓の外の青桐(※1) のように対比と照応がなされている。そして、わすれなぐさの写真(※2) が示している寄せては返す波に似た時間のなかでの繰り返しと持続。
そこから、次のような経験がもたらされる。
ほの暗く厚みのある空気感と時間の漂い感で染めあげられた映像の、空間と時間のメタフォリカルな戯れがわたしを連想へ誘う。闇をともなったほのかな光が静かにゆっくりしみだし漂う。光を見ているというよりも光に浸される感じ。意識の薄暗がりがかすかに照らしだされる気分だ。そのとき、形にならない記憶が芽生え、言葉にならない声がざわめく。言い換えれば、意識の深みが掘り起こされ、情動が喚起されるのだ。
空間と時間のなかで、映像とわたしが漂い溶けあうことで意識や情動が揺さぶられるこうした経験。それは、たとえば、モーリヤックの「テレーズ・デスケイルゥ」の一節を読んだときの経験に似ている。
「アルジュルーズでは、昼でも夜以上に物音がしない。午後はほとんど夜以上に暗くないとは言えなかった。一年でいちばん日の短いこのごろ、間なしに降りしきる雨が、時を一様化し、すべての時間をとけあわさせる。一つの薄あかりが動かぬ沈黙の中に別の薄あかりに追いつく。」
「どんな静かなときでも、林は何か嘆きの声をもらしている。··· そして夜は、はてしないささやきの連続にすぎない。」
(杉捷夫訳 新潮文庫)
だから、いま見ている映像や聞こえている声や音がわたしの外部からやってきているのか、それとも内部から生まれているのかが曖昧になる。形にならない記憶も、映像がもたらす記憶なのかわたし自身の記憶なのかわからない。記憶は、外部から与えられるのでもなく、わたしの内部からよみがえってくるのでもない。いま、ここでつくられるからなのだと思う。
こうして中根秀夫の作品は、わたしの外部と内部、空間と時間を空気のように漂わせ水のように溶けあわせることによって、感覚を越えて意識の深みを捉え、情動を刺激する。そこから、認識のもう一つの見取り図が現れてくるだろう。
はやみ たかし / 美術評論
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1. 「はるかな時のすきまで」(2018年)
2.「うつくしいくにのはなしⅡ」(2019年)